お盆に親族が集まるたび、食卓のまわりはにぎやかになります。
けれどふと気づくと、台所に立ち続けているのは、いつも決まった人たちでした。
「もっと一緒に座っていたかった」
去年の夏、そんな思いが心に残った私は、今年の過ごし方を少しだけ変えてみました。
家族が揃って席に着き、同じタイミングで笑い合えること――
その当たり前のようで難しい時間を、料理の力でそっと支えてもらえたのです。
気づけば台所にいたのは、妻と母ばかりだった
お盆の食卓は、にぎやかでした。
久しぶりに親族が集まり、子どもたちがはしゃぎ、笑い声があふれる。
けれどその輪の外で、黙々と動いていた人がいたことを、私は後になって思い出しました。
妻と、母です。
唐揚げを揚げたり、冷蔵庫から取り出したおかずを並べ直したり。
「誰か動いてるな」と思っても、私自身も動こうとはしなかった。
「ありがとう」と声はかけていたけれど、今思えばそれで済ませていたのだと思います。
食後、妻がぽつりとこぼした一言が、胸に刺さりました。
「ほとんど座ってなかったなあ。何食べたか覚えてないや」
笑って言ってくれたけれど、その声には少し疲れが滲んでいました。
今年は、変えたい。
そう思ったのは、この言葉がずっと心に残っていたからです。
「音と香りが主役になる食卓」が、こんなにも心地よいとは

誰もが笑顔になる、お盆の食卓にぴったりのオードブルです。
年が明けてからも、「誰も立たずに迎えられるお盆」を頭の片隅で考えていました。
職場の昼休みに、ふとその話を同僚にしたとき、
「最近、オードブル頼む人多いですよ。仕出しで上品なのもありますし」
と言われたのがきっかけでした。
手作りをしないことに、最初はややためらいもありました。
でも、やなぎさわやさんのページで見た写真に、心が動きました。
整えられた彩り、控えめで上品な盛り付け。
「これは失礼どころか、むしろ丁寧なおもてなしになるかもしれない」
そんな印象を受けました。
当日、届いた「てんこ盛りオードブル」の蓋を開けた瞬間、
唐揚げやチキン南蛮、枝豆などの香りがふわりと立ちのぼり、
子どもが「わー、おいしそう!」と声をあげました。
その一言に、思わず笑みがこぼれました。
料理が、空気までやわらげてくれた。
そう感じた瞬間でした。
全員が座って迎えたお盆。料理は、会話のきっかけになればいい
てんこ盛りの他に、もう二つ添えた料理がありました。

お盆の食卓に落ち着きを添える、香り高い肉の盛り合わせ。
ひとつは「肉盛りオードブル」。
ローストビーフ、合鴨ロース、ローストポーク。
どれもやわらかく、ほんのりと香ばしい。
父が「これ、やっぱり酒に合うな」と笑って言い、弟も頷いていました。

世代を問わず楽しめる、やさしさに包まれたおにぎりの盛り合わせ。
もうひとつは「おにぎりオードブル」。
鮭、梅、おかか、のり玉子……
懐かしい味が詰まった俵型のおむすびに、祖母が「こういうのが一番ええんよ」と優しく笑っていたのが印象的でした。
賑わいのある一皿と、安心できる一皿。
それぞれが席についたまま、自分のペースで食事を楽しんでいる。
「誰かが立つ」時間が、今年は一度もありませんでした。
「こんなにゆっくりできたの、久しぶり」――その言葉が、何よりのごちそうだった
食事のあと、妻が湯呑みを持って静かに言いました。
「今年は、ちゃんと座って食べられた。ほんと、ゆっくりできた」
その一言が、私にとって何よりのごちそうでした。
オードブルがあったからといって、特別な演出をしたわけではありません。
むしろ、なにもせずに済んだことが、今年のいちばんの変化でした。
料理は、きっかけでいい。
大切なのは、誰がそこにいるか。
そう思わせてくれた今年のお盆は、静かに、けれど確かに、心に残る時間でした。
お盆の食卓は、誰かの負担の上に成り立つものであってほしくない。
そう思うようになったのは、自分自身が「座っていただけ」だった時間を振り返ってからでした。
今年のわが家では、誰も台所に立つことなく、お盆の団らんが始まり、終わりました。
あの静かな空気のなかに、料理ではなく「人」を主役にした食卓があったのです。
どれも心をこめて仕立てられた品々ばかりです。
ただの便利さではなく、家族の時間にそっと寄り添ってくれる存在として――
私はまた来年も、この選択をしたいと思っています。
数量には限りがあるそうですので、もし気になっていらっしゃる方がいれば、
どうぞお早めに、でも焦らずに。
「ゆとりあるお盆の食卓」のご準備を、静かに始めていただけたらと思います。